この感情をエモと呼ぶにはいささか歳をとりすぎた

おはようございます歪み溶岩です。今年もよろしくお願いします。

ただいま高校の友人との新年会を終え意味もなくネカフェに籠城しブログを書いています。

 

毎度のことなんだけども久しぶりに会う友人と楽しい時間を過ごしたあとは何とも言い難い感情が襲ってくる。かつてはエモで片付けられたであろうこの感情もいよいよ自分の中で誤魔化しが効かなくなったので何たるかを真剣に考えてみた。

友人と会ってする話なんてのは最終的にはその人の現状はどうなん?ってところに行き着くもんで、仕事は何々でどこどこに住んでいて何才で結婚して子供が何人…今は何々にハマってるんだなんてそんな話を聞いてさ、各々自分の人生を苦労もありつつ謳歌している。

そんな友人の幸せと一口に言うのも陳腐だけどそういったこれまでの人生が垣間見える話が聞けるのは僕としても嬉しいことではあるんだよ本心から。

ただ結局、底意地の悪い僕の根底にある感情は嫉妬心で、みんなが大人になっていく中で僕は一人取り残されて『異性に一切好かれなくて辛い』とかいうクソみたいな悩みに苛まれている。周りが羨ましくてたまらないし自分のダメさ加減にはつくづく辟易する。

個人的に嫉妬心ってのは向上心の類義語だと思っていて、某芸人の山ちゃんも嫉妬心はガソリンでそれを自らの燃料にするか周りを燃やし尽くすのに使うかだと言っていた。人の悪口で嫉妬心を昇華しているつもりはないけどたぶん僕は嫉妬からくる努力のベクトルは確実に間違えている。僕がこんなブログを書いて鬱憤を発散するのは思春期の悩み多き少年が周りに注目されたくて非行に走るのとどこか似ている。

何から頑張ればいいのかがわからない。人間関係において普通の人は当然できていることが僕にはできない。もしかしたら僕は発達障害とかその類なのかもしれない。人との距離が測れない。測れないから近づけない。近づけないなら当然人が近寄ってもこないなんて少し考えれば当たり前の話なんですよね。

最近読んだアドラー心理学の本によれば僕はいつだってできない理由を探して自分を納得させて上手くいかなかった過去に囚われて変わる勇気がないヘタレだから幸せになれない不幸自慢が生業のカスなんだそうです。そこまで読んで辛くなってそこから先はまだ読めていない。

勿論僕だって変わりたいとは思うし、なりたい自分の理想像だってある。でもその理想像は他者から見出してはいけなくて自分の中から見つけ出さなきゃいけない。変わる勇気は必要だけど自分の根幹を無理に変えるのは違うらしい。人生って難しすぎやしないか。

本当はもっと自分のことを話せる人間になりたい。飲み会とかでも口数増やしていろんな人ともっと話せたらなといつも後悔している。殊更最近は自分の好きなものについてしっかり語れる人に憧れる。具体的に誰ってのはあるけど個人名を出すのはやめとく。

自分のこんな腐った根っこも含めて受け入れてくれる人がいるなんてかけらも思えないけど、(友人として認めてくれている人ならいると思っている。)思い悩みがある以上そんな人を探すしかないんだよな。こんなネットの文章上ではなく実生活で自分をもっと晒すことから始めよう。怖いけど。

 

ひと段落したのでネカフェをでたらもう昼間。書くのにだいぶ時間をかけてしまった。自分で言うのもなんだけどこんな鬱屈した心のおもらし新年早々読むもんじゃねえな。今更だけど閲覧注意!

 

改めまして2019年もどうぞよろしく。ではまた。